13世紀、アンコールトムの地を訪れた中国・元からの使者、周達観が『真臘風土記』に書き残した胡椒への言及、それは漢字でたった23文字のみ。そこから始まった、『カンボジアの胡椒と、その周辺の物語』。13世紀以降のカンボジアの胡椒に関する歴史文献の紹介と現在のカンボジアとベトナムの国境あたりにあったハーティエンという華人小国家の存在、さらには欧州とフランスの胡椒周辺のトピックの紹介、そして21世紀に胡椒を作るカンボジアの人たち。そんな流れでつづってきましたこの物語も、ぼちぼちと終焉を迎えようとしています。
あとは最後に触れておきたい胡椒をめぐる話として、東南アジアで続いてきた華人排斥の歴史。あるいはカンボジアでの華人の問題を書いて、あと胡椒とは関係ありませんけれど、胡椒のことを調べていたら見つけたら面白いお話を外伝としてご紹介しようと思います。ということで、あと数回、お付き合いください。
今回は、東南アジアでの華人排斥の歴史を駆け足でさらっと。短い投稿となりますけれど、こんな東南アジアの歴史も知っていただけたらと思います。
(前回の投稿には、以下からとべます)
中国の華人の歴史研究者が出会った1987年帰国華人農場のカンボジア帰りの華人たち
『華人の歴史』の作者リンパンは、廈門(シァメン)近郊にある「天馬」という名の華人農場を一九八七年に訪問し、カンボジアから逃げてきた華人にも遭遇している。廈門はアモイという名でも知られる観光地で、台湾とは台湾海峡を隔てた中国大陸側にある。
私はカンボジアからの送還者にも会った。(略)これらの人々がプノンペンを出たのは、ポルポトが首都を制圧した1975年のことだった。このとき残ったカンボジアの中国人人口の半分、約二十万人が死んだ。犠牲者の比率は、この同じ時期に死んだ都市部のカンボジア人の死亡率の二倍である。[i]
東南アジアで繰り返されてきた華人排斥の歴史
海を渡った華人たちが、それぞれの移住地で先住民や植民地政府によって弾圧される事例はほとんどすべての東南アジア諸国で古い時代から起こってきた。
たとえば、フィリピンでは1603年にマニラ在住華人3万人のうち2万人が虐殺される事件が起こるなど、スペイン統治時代だけで5回もの華人への虐殺事件が起こっている[ii]。
インドネシアでも、古くはオランダ統治時代の1740年10月に起こったバタヴィア(現在のジャカルタ)でオランダ人とジャワ人による華人の大量虐殺が起こっている。また1965年9月に起こった軍事クーデターをきっかけに、共産党シンパへの大量殺人が起こった。その犠牲者数は300万人という説もあり、犠牲者の数で比較すればポルポト時代のカンボジアでの犠牲者数を超えるように立ち上がるな規模だ。この事件はインドネシアの華人社会にも大きな影響を与えた。インドネシア社会史研究者の倉沢愛子はその著作の中で次のように書いている。
九・三〇事件で、PKI関係者と並んで社会暴力の対象となったもう一つの集団は、中国系住民や中国政府の関連機関であった。殺傷されたケースはさほど多くはなく、したがって「虐殺」というようなものは起こらなかったが、彼らの財産が脅かされたり、組織や学校が閉鎖・焼き討ちされたり、居住から追い出されたり、あげくのはてには「中国へ帰れ」と要求されるなど、さまざまなハラスメントを受けた。[iii] (筆者注 文中のPKIとはインドネシア共産党のこと)
最近では、アジア通貨危機を背景に1998年5月にジャカルタで大規模な華人経営店の焼き討ちがあり1000人以上が犠牲になった[iv]。
華人に対する「差別」は日常的な生活の中にも見られる。たとえば華人がそれぞれの言語で学習する権利を奪われたり、職業選択の自由を制限されたりしている。カンボジアでも独立後に中国籍の華人は18種の職業から排除されている[v]。
カンボジアでは、選挙のたびに国家への帰属意識を高揚させるようなエキセントリックな演説が繰り返される。ちょっとしたデマ情報がインターネットを通じてカンボジア社会に広まる事例を見ていると、愛国の情熱が外国人排斥に向かうことを危惧しないではいられない。フンセン首相を始めとして国の指導者の中にもカンボジア華人は多く、カンボジアの排斥が華人に向かう可能性は高くはないとしても、やはり心配にはなる。
さらに最近の多くのアセアン諸国で、これまでの在住華人ではなく、新しく興った中国資本が進出して経済発展に影響を及ぼす一方、経済格差の拡大などによって中国資本への現地社会の警戒感が高まり、長くそこで暮らす華人系住民にもその影響がおよぶ傾向がある。カンボジアでも特に中国資本の進出が際立っている。高価な住宅を中国資本が投資のために開発し、またそれを中国の富裕層が買い占める。華人への嫉妬心が高まるだけの潜熱はカンボジアにも蓄えられている。
カンボジアのスラエオンバルで、海南島出身の祖父が開いた胡椒畑を継承しているティさんは「自分はカンボジア人だ」と言う。彼には、ことさら華人という強い思いはない。ただ、両親がしてきたように自分もチェンメン(清明祭)を祝い、祈り方を若い世代に伝えるだけだ。彼の数代前の先祖が超えてきた境界はすでにぼやけている。ぼやけてしまったものを、あえて濃く描きなおすのは野暮というものだ。
「異邦人」への圧力の構図は、大雑把に書けば、どこでも似ている。それぞれの政府はその社会の「多数派」を優遇する政策をとる。その結果、移住者・少数者と多数者の境界は強まり摩擦が生まれる。日本も例外ではない。ぼやけかけた境界を再度濃い色で引き直すかのように中国や韓国・北朝鮮への蔑視は表面化しているし、海外からの労働者への警戒感も強い。人口減少・高齢化社会での経済の先行きへの不安が、たとえば国益というような内向きの言葉を強化し、外との敷居を高くする。その行き着く先は、回避できたはずの争いや差別ではないのか。
カンボジアで質のいいコショウが今後も生産されるためにも、華人排斥という歴史が繰り返されないことを強く求めていきたい。
[i] 二五六ページ リン・パン/著 片柳和子/訳『華人の歴史』
[ii] 一〇〇ページ 小林正典/著『フィリピンの中国系移民と中国との関係 福建から香港ルートへの傾斜と教育・言語の問題を中心に』 和光大学現代人間学部紀要 第6号 二〇一三年三月
[iii] 一六一ページ 倉沢愛子/著 『岩波現代全書28 9・30 世界を震撼させた日 インドネシア政変の真相と波紋』岩波書店 二〇一四
[iv] Wikipedia(英語版)「May 1998 riots of Indonesia」 https://en.wikipedia.org/wiki/May_1998_riots_of_Indonesia
[v] 二六一ページ リン・パン/著 片柳和子/訳『華人の歴史』


















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